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教養・外国語 2020.05.15

なぜ、「日本の伝統芸能」なのか

倉持 長子 倉持 長子 客員講師
なぜ、「日本の伝統芸能」なのか

最先端の高度なITスキル育成をめざすサイバー大学において、古めかしい印象を放つ科目「日本の伝統芸能」が開講されていることを不思議に感じる方は多いのではないでしょうか。たしかに、能楽(能・狂言)・歌舞伎・人形浄瑠璃、落語、花街文化など伝統芸能についての知識は、文化的教養や趣味、舞台鑑賞の手引きとなることはあっても、残念ながらビジネスの現場で即戦力として役に立つわけではありません。にもかかわらず、日本の伝統芸能を学ぶ意義は何でしょうか。私は、芸能が持っている「逆境を生き抜くチカラ」に触れていただくためだと考えています。

どんなときも生き抜くチカラを

「伝統芸能」とは、芸能のうち、ある社会・集団の中で長い時間をかけて育まれ、受け継がれてきたものを指します。皆がアッと驚くようなパフォーマンスが一人の天才によって創り出されたとしても、それが時代を超えて多くの人に受け継がれ、ほかの芸能と区別されるような領域となり、充実した内容と形式を備えて成長し続けることがなければ、「伝統芸能」と呼ぶことはできません。現在まで継承されている伝統芸能は、権力者をはじめとする観客による厳しい評価はもちろん、災害、戦争、疫病といったさまざまな逆境を生き抜いてきたエネルギーに満ちたものなのです。

たとえば、能を例に挙げてみましょう。中世に能を大成した世阿弥の人生は、その職業から差別を受けたり、後継者である息子が早逝してしまったり、晩年は流刑にあったり、と苦難の連続でした。しかし、世阿弥は「命には終りあり、能には果てあるべからず(人の命には終わりがあるが、能という芸能には終わりがない)」という信念のもと、絶望のなかにあっても、生涯をかけて能の発展に尽くしました。世阿弥が活躍した中世は、芸能の群雄割拠の時代と呼べるほど多くの芸能グループがしのぎを削っていた時代でしたが、世阿弥はほかの芸能ジャンルの優れた点を真似してみたり、新しいアイディアを取り入れてみたり、と柔軟に試行錯誤を重ねて芸を磨き上げ、自分の経験と考えを書に残し、後継者を育成して芸をつないでいきました。

能の作品にも目を向けてみましょう。能には楽しいお祝いの作品もありますが、一方に悲劇的な作品もたくさんあります。その主人公たちは、恨みを抱いたまま死んだ亡霊をはじめ、子どもを誘拐されたり、障がいや病気を抱えた身で追放されたりなど、この世の理不尽に直面した悲惨な人々です。能はこうした人々を供養し、救済する劇として成長してきました。2011年東日本大震災の後には、東北で被災された方々への鎮魂と復興への願いを込めて多くの能が上演されてきました。そのほか、キリスト教の能や、アウシュビッツで亡くなった方のための能も作られ、海外でも上演されています。能は約600年の間、深い悲しみのただなかにある人々へ奉げられる「祈り」となり、国境や宗教を超えて人々の心に寄り添ってきたのです。

生きている伝統芸能を感じてほしい

日本の伝統芸能は、過去の遺産ではありません。現在も継承され、私たちを楽しませ、励まし続けてくれています。私の科目「日本の伝統芸能」では、第一線で活躍する役者さんたちの実演やインタビューの映像、教員自身のフィールドワークなどを通じて、伝統芸能の国内外社会との関わりや将来の展望について、皆さんと一緒に考えていきます。ぜひコンテンツを通じて、皆さんご自身の目と耳で現代に息づく伝統芸能のエネルギーに触れ、元気になっていただければ幸いです。

倉持 長子
倉持 長子
KURAMOCHI Nagako
  • 客員講師
  • 教養科目

2008年東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了、2015年聖心女子大学大学院人文学研究科博士後期課程修了。2015年春より玉川大学、2016年春より聖心女子大学にて、レポート・論文・プレゼンテーション・自己PR等の文章表現を指導している。古典芸能(能楽)の作品研究を行っており、2015年秋より明星大学にて伝統芸能の講義を担当するほか、都内代々木能舞台(代々木果迢会)にて、能楽公演前のプレレクチャーを行っている。